
紀美野町(きみのちょう)の山あいに、棕櫚箒(しゅろほうき)をひとりで作る工房がある。注文を受けてから一本ずつ仕上げ、長さは使う人の身長に合わせる。和歌山県の郷土伝統工芸品である棕櫚箒を、伝統の手順のまま全工程をひとりで担う仕事で、同じ形を量産する場ではない。
工房から少し離れたところに、廃校になった旧上神野(かみこうの)小学校がある。西尾さんは、校長室だった部屋を展示室にしている。浮世絵に残る古い棕櫚箒の絵、この土地の職人が作った棕櫚箒、師匠が自ら組み立てた機械。口伝えしか残っていなかったことを、人が足を運べる場所へ移した。箒を作ることと、記録を残すことが、いまの西尾さんの仕事になっている。
後継がいない、と分かって

西尾さんは広島市の生まれで、大学ではデザイン工芸を学んだ。工芸の担い手が減っていることも、その課題も、在学中から見えていた。工芸に憧れがあったが、卒業後はデザインの仕事につき、二〇〇二年に和歌山市へ移る。移住先で郷土資料を開いたとき、一枚の写真に目が止まった。紀美野町(旧・野上町)の職人が作った棕櫚箒だった。
「写真ですけど、箒にまず感動して」
記事を読むと、作り手はすでに高齢で、後継はいないと書いてあった。動木平(とどろきひら)の桑添勇雄(くわぞえいさお)さんである。素晴らしい仕事だと思ったが、息子や孫が継ぐだろうと考え、自分の仕事ではないと一度は置いた。四年ほどして、もう一度調べると、後継はやはりいなかった。
「それだったら、やらせてもらえるなら、やる気だけはめっちゃあると思って」
連絡は入れずに工房を訪ねると、桑添さんは留守で、応対したのは桑添さんの奥さんだった。弟子になりたい、とだけ伝えて帰ると、その日のうちに電話が入り、明日から来てみて、と言われた。
桑添さんは、動木平で質の高い箒を作ってきた世代の一人である。弟子を取る基準は、はっきり言葉にされないことも多かった。西尾さんが後から理解したのは、同業の関係者ではないこと、覚えた技術を人数で回す側に渡さないこと、この土地の仕事を安易に外へ出さないことだった。体格も見られた。組み立ては力のいる仕事で、本来は男性の仕事とされてきた。西尾さんは師匠より背が高く、手の大きさはほぼ同じだった。汚れる仕事を嫌がらないことも、見られていたという。
雇う契約はなく、来るなと言われれば終わりだった。西尾さんは五年間、その緊張のまま通い続けた。
見て、手が覚えるまで

教え方は、見て覚えろ、に近かった。はじめのうちだけ、隣でパーツを作る奥さんの手元を真似した。師匠の作業台はさらに奥にあり、その後ろにトイレがある。近くで手元を見たい工程があると、用もないのにトイレへ行くふりをして奥へ通り、後ろから覗いた。
まずは、五つの束を組み合わせた皮の片手箒一本を構成する三束を正確に作り分けるところから始まった。束がある程度できるようになった頃、見本として師匠の箒を渡され、この通りのものを作れ、と言われる。箒を構成する束の厚さは皮の枚数では決まらず、幅も繊維の量も皮一枚ずつ違う。握ったときの手応えが同じになるまで、山になった皮の中から選ぶ。
「これはもう経験ですね」
束は家に持ち帰り、寝るときも枕元に置いて触っていた。感覚を体に入れるためである。できたものを師匠が仕上げ、だめなら売りにも出してもらえない。原料を無駄にした、という空気が残る。それでも西尾さんは通い続けた。やめたら残らない仕事だ、という気持ちもあった。
師匠の箒と比べて区別がつかなくなったとき、その箒は任せてもらえた。一種類ずつ数をこなし、手が覚えたら一段難しい形へ進み、最後は、もう教えることはない、と言われた。大学までは個性が大事だと教わってきたが、この仕事では逆だった。師匠の手の通りにやり、自分の癖は出さない。
弟子入りしてすぐに師匠から「一通り習得するには最低でも五年から十年は通わなければならない」と言われた。ただし、十年通っても一人前になるかはその人次第で、十年どころか何年続けても一人前になれない人もいる仕事だとも言われた。西尾さん自身、時には日曜も通い、夜も家で練習し、五年で独立を認められた。
弟子入りした当時でも、徒弟制度や内弟子は珍しく、前時代的といわれるその働き方にも興味がわいた。師匠と一緒に毎日働きながら修業するとはどういうことか、実際に体験して、これが技術習得・継承の最短の道のりだと理解した。
ええ箒だけを作る、と決めた

師匠の工房は、問屋や京都の箒店へ卸す仕事が中心だった。規格の決まった箒を決まった量で作り、個人から直接届く注文はときどき混ざる程度である。西尾さんは、卸用の箒を作ることにはだんだん意欲がわかなくなった。やりたいのは、師匠が細々と受けていた直接の注文の方だった。その人に合わせた箒を、特別に厳選した原材料を使い細部まで丁寧に作ることである。
「誂え物の箒を一本ずつ作るということがやりたい。そうでないと、多分将来続かないだろうなと思って」
やりたいことがはっきりしてきた頃、師匠は独り立ちを促した。もうここにいなくてもいい。西尾さんの仕事ぶりを見たうえで、量産するような箒でも問屋向けの商品でもなく、一本売りの箒を作った方がいい、という言葉もあった。修業の終わり近く、初めて対等な目線で話してくれたとき、「あんたはええ箒を作れ」とも言った。卸に合わせ始めると、作りはそちらへ寄っていく。誰しもがいい箒を作れるわけではない。やむを得ない事情があるとき以外は、そうでないものは作るな、と受けとめている。西尾さんは、その言葉をいまも大切にしている。
二〇一二年、同じ町内に棕櫚箒製作舎を開き、卸はせず、電話や手紙、ホームページから届いた注文を自分で受けることにした。
「縁のあった方だけにしかお届けできないけれど、私が思う最高の箒を譲りたい」
その人に合わせて

受注製作にするつもりで始めたわけではなかった、と西尾さんは言う。届いた注文が、思った以上に時間のかかる上質な箒へ偏った。本鬼毛(ほんおにけ)は、棕櫚の皮をほぐした繊維の中から、太く硬いものだけを一本ずつ抜いて集める。皮の状態から取るなら、一枚から多くて十本と言われている。枝や葉を支える繊維で、長いものはさらに少ない。
昔は抜き集める内職があり、棕櫚を紐やロープに加工する業者からも回ってきた。太い繊維が混ざると綺麗に撚れないため、抜いたものを箒屋へ渡していたのである。その分業はいまはない。本鬼毛の箒をいま作るなら、自分で抜くほかない。選ぶところから数えて、およそ一週間に一本である。在庫を置く余裕がなくなり、結果として受注になった。いいものは二年近く待ってもらうこともある。
注文では、身長と年齢と性別を必ず聞く。一般に売るなら規格サイズで足りるが、聞いてみると百八十センチの人も、百四十センチの人もいる。子供が使う、という注文もある。一本ずつ作るのだから、長さだけでもその人に合わせよう、と判断した。化学物質過敏症やアレルギーがある場合も聞いておく。作業のあいだに触れたものの匂いや成分が箒に残らないよう、日常生活で使う洗剤などにもあらかじめ気を配る。
素材も用途で変える。和菓子屋や蕎麦屋のように粉を掃きたいなら、繊維の細い皮箒のほうが細かい粉を取りやすいが、洗いながら清潔に使いたいという場合には、鬼毛の中でも特別に細い繊維を選んで作る。
「多分、本来の職人仕事ってそういう感じじゃないかと」
使う人と使う場所に合わせて、寸法も素材も決める。一本ごとに仕様が変わる。
変えていいこと、いけないこと

師匠は正しい手順を文書にはせず、許容できない線だけを頭の中ではっきり持っていた。長く横にいると、怒りの大きさでその線が見えた。取材の席で急に声が荒くなることもあった。仕事以外では優しい人だったが、仕事の場では自分の哲学や実用から外れる提案を受けつけなかった。
箒は掃除の道具である。掃く能力を高めるために棕櫚を厳選した結果、箒の価格が上がることは仕方がない。けれど持ち手に装飾を施すような、棕櫚と関係のないところで値段を乗せることはその主義に合わない。黒竹を好んだのも、染めた色ではなく竹そのものの色が棕櫚と調和したからで、縛る糸も黒以外は好まなかった。装飾に割く手間は、無駄だと考えていた。
アルミの伸縮柄を付けてほしい、という話も断った。それなら既製のものを買えばいい。自然の素材を選び抜いて、余計なものを足さない。西尾さんが見てきたのは、その姿勢だった。
昔の片手箒は、柄竹に棕櫚皮の束を巻いて留めるだけだった。どこか一箇所が外れると使えなくなる。学校の掃除で壊れると問屋から相談されて師匠が考えたのが、柄に竹串を通して固定する形だった。実を重んじる考えが、道具の構造になった。
棕櫚箒を「一生もの」と呼ぶ言い方も、西尾さんの感覚とはずれている。師匠の世代は、人の寿命が六十年ほどだった頃の言葉として「一生に三本」と言ってきた。西尾さんが知るいちばん長い使い方は、料亭で三十五年、毛先が十五センチほど減った一本で、普通は二十年ほどだろうという。自然素材は使うほどに減り、修理もいる。「一生もの」と付けるのは、誇大広告ではないかと思う。
修理を受けるのは作ったものへの責任である。昔から壊れにくいように作り、それでも壊れたら直せるように作る。皮箒は、皮が傷んだ時点でほぼ使い切りになる。修理を引き受けるのは思い入れのある一本に限る。再利用できる棕櫚が少なかったり、分解して柄竹にヒビが見つかったりした場合は、長い箒を片手箒にするなどして形を変えて残すこともある。送料だけで往復に数千円かかるいま、そこまでする人は多くないが、相手の気持ち次第では引き受ける。
箒の材料になるほどの太さの木に育つには、十五年、二十年とかかる。その時間を知ったうえで作るなら、その木が生きた時間と同じくらいかそれ以上長く使える箒にしたい。用途によって安く仕上げるために皮質を落とした箒を売るときには短い年数を言うが、実際にはそれ以上持つものを作ってきた。材料をないがしろにしないこと。西尾さんが師匠から受け取ったのは、その姿勢だった。
残し伝える場所をつくる

動木平の仕事は代々、場で伝わってきた。文献にはなっておらず、学術的に辿ろうとしても裏付けが薄い。西尾さんは弟子になって間もなくそのことに気づいたが、記録を残すことを町も行政も急いではいなかった。
「これをするためにも、私がこの仕事に就いたのかしらとも思うぐらい」
師匠の工房には近所に住む師匠の友人や、親類の元・棕櫚箒職人をはじめ同業の人が茶を飲みに来た。弟子がいると面白がって昔の話をしてくれるので、西尾さんはそれを聞き、メモを取り、同じ話を別の人にも当たった。本に書いてあっても住所や人名が違っていることがあり、鵜呑みにはしない。歴史については角度を変えて確認する。
そうして確かめてきたことを置いているのが、旧・上神野小学校の展示室である。文献に残る棕櫚箒の資料を集め、県の伝統工芸品指定調査の資料も出した。毛捌き機(けさばきき)は、師匠が昭和三十年頃に手で作ったものだ。師匠の工房が廃業になった後に処分されそうになったものを西尾さんが受け取り、入り口から入らなかったため、地域の人が集まって窓から入れた。
町内の小中学校の掃除には、西尾さんの棕櫚箒が使われている。町の産業課が予算を組み、町の事業として学校へ渡した。展示室にも同じものを置いてあり、触って、掃いてみてほしいからである。
「実物を見てもらうって、大事だなと思うので。どなたでも来てほしいですね」
世代は問わない。棕櫚箒のことを知っている人の方がもう少なく、愛好家や興味を持ってくれる人もいれば、たまたま立ち寄る人もいる。どちらでもいい。見て使ってもらわないと、分からないことがある。
ちゃんと作っていると、伝えたい

二〇二五年、師匠の息子さんが亡くなり、修業した工房も廃業になった。師匠も奥さんも先に亡くなっており、一人になったという実感は、そのあとで来た。
宣伝しても数は作れないので、取材を断ることもある。それでも時々受けるのは、この地域で棕櫚箒が途切れずに作られてきたことを伝えたいからだ。動木平の棕櫚箒が遅くとも江戸後期から続いてきたとすれば、百五十年から二百年近く、地域のさまざまな職人の手で受け継がれてきたことになる。西尾さんが出会った元職人や棕櫚産業に携わった人たちは、誠実で職人気質の、商売っ気のない人が多かったという。その人たちが、棕櫚製品の品質だけはどこにも負けない、世界一だと熱く語っていた。そうして磨かれてきた製法と誇りが、師匠と地域の人々から西尾さんの代へ確かに渡り、昔と変わらない作り方で、細々とだが今も続いている。
弟子を取るなら

弟子については、踏みとどまっている。副業や教室のように週末だけ教えてほしい、という希望は今もある。技術を継承するには週に数日通うのでは足りないことは、師匠の代からの判断でもあり、西尾さんが通った五年でも分かった。家族を抱えた人に、向き不向きの分からない仕事を勧められない時期もあった。西尾さんも弟子入り後に知り驚いたことだが、棕櫚材は昭和四十年頃からすべて輸入に頼っており、値段は上がり、将来も読みにくい。
それでも、教えるならここに住んで作り続ける気のある人に覚えてほしい。よそから来た人でもかまわない。西尾さん自身がよそ者としてここに残った。そういう人が現れる保証はないが、現れる前に外の人へ渡してしまうことには踏み切れずにいる。
「本当に自分がそうだったみたいなレベルで真剣だったら、教えると思います」
西尾さん自身が弟子になれたのも、タイミングだった。師匠がまだ若ければ断られていたかもしれない。もう後継者はいないと諦めかけていた時期だったからこそ、受け入れてくれたのかもしれない、と西尾さんは言う。
看板の前で

独立して十五年はあっという間だった。弟子の五年は密度が濃く、長く感じたが、一人になってからの時間の方が早い。状況そのものは大きく変わっていない。変わったのは、残す側が自分しかいなくなったことである。
「私はただ事実をそのまま伝えたいと思っているだけで。私が死んだあとに知れても別にいい」
動木平の棕櫚箒の歴史や製法は、文献にもほとんど残っておらず、現物資料も乏しい。伝統製法の継承については、師匠が太鼓判を押してくれた。棕櫚箒にまつわる歴史については、見て、会って、学んだことのうち、裏付けのある事実はこれです、と残したい。当時を知る人への聞き取りはいまも続けていて、それを形にできれば、一仕事終えた気持ちになるという。ここに確かにあったことが、まるで最初からなかったように忘れ去られたり、都合のいい話にすり替えられたりするのは、先人や話してくれた人たちに申し訳ないと思っている。
工房の看板の字は、書をたしなむ母が書いたもので、頼むと何種類も書いて送ってくれる。西尾さんはその前で箒を作っていて、師匠が横にいる感じはいまもあるという。迷ったときは師匠ならどうするかを考える。これはやってはいけないという線だけははっきりしていて、その線がいまも方向を決めている。
ええ箒を作ることと、事実を残すこと。西尾さんの判断はその二つから外れていない。
ACCESS
棕櫚箒製作舎
〒640-1363 和歌山県海草郡紀美野町田163
※工房での見学・販売は行っていません
URL https://shurohouki.jp/
Instagram https://www.instagram.com/shuro.houki_brooms/
棕櫚箒の歴史資料展示室(旧上神野小学校)
〒640-1215 和歌山県海草郡紀美野町鎌滝107
※見学は要予約(下記Instagramから)
Instagram https://www.instagram.com/teshigoto_taiken
