
あなたは最後に、ゆっくりとお茶を淹れたのはいつだっただろうか。
忙しい毎日のなかで、つい忘れてしまう。
お茶を淹れる時間が、どれほど豊かなものかを。
和歌山県海南市、住宅街の一角に、88年続く日本茶専門店「藤本茶舗」がある。
4代目の藤本さんが大切にしているのは、「ひとやすみからはじまる未来」という言葉だ。
一杯のお茶から、何が始まるのか。
JR海南駅から徒歩15分。この店を訪ねてみた。
「おかいさん」和歌山の茶がゆ文化

「和歌山では昔から、ほうじ茶でお米を炊くんですよ」
藤本茶舗の四代目はそう言って、和歌山特有の茶文化について語り始めた。和歌山と奈良南部に古くから伝わる「茶粥」。水の代わりにほうじ茶を使い、生米から炊き上げる。土鍋にほうじ茶を沸かし、生米を投入。お米が柔らかくなるまでコトコト煮る。炊き上がった茶粥は、ほうじ茶の香ばしさと米のほのかな甘みが絶妙に調和する。
「僕も子供の頃、冬の間はおばあちゃんが茶粥を炊いてくれました。土鍋でコトコトと。今でも『おばあちゃんの家で食べた』という方がすごく多いんです」
この「おかいさん」は、かつては和歌山の家庭で毎日のように食卓に上がっていた。朝から家族のために炊き、温かいうちに食べる。それが当たり前の光景だった時代がある。しかし今、茶粥を日常的に炊く家庭は少なくなり、「昔のもの」になりつつあるという。
「たまに炊く人はいますけど、毎日ではないですよね。でも簡単なんですよ。だからワークショップで茶粥の試食会をやったら、皆さん懐かしがってくださって」
地域に根ざした食文化が、世代を超えて受け継がれていく。その懐かしい味を守り、次の世代へと伝えることも、藤本茶舗の大切な役割だ。
「変えてはいけないもの」を見極める

四代目が家業を継いだとき、まず考えたのは「何を変えてはいけないのか」ということだった。
「今でも販売している茶粥パックや、いつも買いに来てくださる方の茶葉。そういう地域のお茶として、ずっとその人のそばにあったようなお茶は、変えないでおこうと思いました。『いつものお茶が変わる』というのは、違和感がありますから」お客さんの中には、毎日同じお茶を飲んでいる人がいる。その味が少しでも変わると、すぐに気づく。「今日のお茶、なんか違うな」と。そう感じさせてはいけない。それが、常連客との信頼の証だから。
一方で、衛生管理や店舗の在り方、情報発信の方法は時代に合わせて進化させてきた。SNSでの発信、ワークショップの開催、若い世代へのアプローチ。「もっともっと」というスタンス。伝統を守りながら、新しい風を取り入れる。その絶妙なバランスが、藤本茶舗を支えている。
「別に僕が伝え継がんでも、誰かが伝え継ぐんでしょうけど、誰かが伝えないと無くなるんで」
淡々と語る言葉の奥に、静かな決意が感じられた伝統を守ることと、時代に合わせて進化すること。その両立は簡単ではない。しかし四代目は、「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」を見極め、地域に愛される茶舗としての在り方を模索し続けている。
「むしろ、知られていないのがもったいないと思って。美味しいのに、と。もっと多くの人に伝えたいという気持ちが強いですね」変えずに守るものは守る。そして、知られざる良さをもっと多くの人に伝えたい。その想いが、四代目を新たな挑戦へと駆り立てている。
「茶の魅力を、伝える」

四代目は、全日本茶協会が認定する「日本茶インストラクター」の資格を持っている。筆記試験と実技試験があり、茶葉の外観から品種や産地を見分けたり、一番茶と二番茶を飲み比べて判別したりする高度な試験だ。
「合格率もそれほど高くはないのですが、毎年何十人かが合格しています。日本茶インストラクターの目的は、茶の魅力を広めること。だから入れ方講座などのインストラクションが、最終審査の一部になっているんです」
資格取得の目的は、ただ知識を深めることではない。正しい知識を持って、多くの人にお茶の魅力を伝えること。それこそが、日本茶インストラクターの使命だと四代目は考えている。
現在、藤本茶舗では定期的にワークショップを開催している。テーマは毎回異なり、水出し茶、秋のお茶、新茶の飲み比べなど、季節や関心に合わせて企画する。インスタグラムで募集すると、ありがたいことに満席になることも多いという。
「和文化を体験したいという方もいらっしゃって。新茶の時期なら、新茶の入れ方や産地による違い、飲み比べをメインにしたり。同じ茶葉でも、入れ方で全然味が変わることに驚かれます」
参加者は、それぞれのお茶に合った入れ方を知ることで、家でも美味しいお茶を楽しめるようになる。
日常に寄り添う茶を、もっと多くの人へ

四代目が目指すのは、特別な日だけでなく、日常に寄り添う茶の魅力を伝えることだ。
「特別感と日常感、そのバランスが大切だと思っています。高級品として売りたいわけではなく、もっとお茶の良さや、こういうお茶があることを知ってほしいんです」
玉露のような高級茶も、煎茶のような日常茶も、それぞれに価値がある。大切なのは、その茶が持つ本当の美味しさを知ってもらうことだ。
「同じ茶葉でも、湯の温度や蒸らし時間を変えるだけで、味は大きく変わります。その違いを体験してもらい、自分好みの入れ方を見つける楽しさを知ってもらいたいですね」
藤本茶舗の店頭には、創業から変わらぬ味の定番商品が並ぶ。その一方で、ワークショップでは新しい茶の世界が広がる。四代目が大切にしているのは、「いつものお茶」を守りながら、「知らなかったお茶」の魅力を伝えることだ。
「お客様との距離感や、お付き合いの仕方は変えていません。地域のお茶として、ずっとその人のそばにあり続けたい。それが、藤本茶舗が代々受け継いできた姿勢です」
地域に根ざし、人々の日常に寄り添い続けること。それが、藤本茶舗が代々受け継いできた姿勢だ。そして四代目は、その伝統を守りながら、茶の文化を未来へとつなぐ新たな挑戦を続けている。
ひとやすみの哲学 – 失われゆく「間」の美しさ

藤本さんが掲げる「ひとやすみからはじまる未来」というコンセプトには、現代人への静かなメッセージが込められている。
ワインのデカンタージュ、コーヒーのドリップ。世界中に、「待つことを楽しむ」文化がある。お茶もまた、その一つ。茶葉を選ぶ時間。お湯を沸かす時間。茶葉が開くのを待つ時間。香りを楽しむ時間。そして、一口飲んで「ああ、美味しい」と思う時間。この一連の行為が、「ひとやすみ」なのだ。
茶葉が開くわずかな時間は、決して無駄な時間ではない。香りが立ち上がり、静かに揺れる湯気を眺めるうちに、心が整う。そんな贅沢な時間。
スマートフォンを見続け、常に情報にさらされている現代人。効率を求め、待つことを嫌う社会。しかし、人間には「間」が必要だ。何もしない時間、ただ待つ時間、自分と向き合う時間。
お茶を淹れる時間は、自分をリセットする時間。茶葉が開くまでの間は、心を整える魔法の時間。日本人が大切にしてきた「間」の美しさが、そこにある。
「ひとやすみの先に見えたもの」

取材を終えて店を出るとき、ふと気づいた。
藤本さんが伝えようとしているのは、お茶の味だけではないのだと。
それは、時間の使い方だ。
待つことの豊かさ。香りを楽しむ余裕。
一杯のお茶を淹れることで生まれる、ほんの数分の「間」。
現代人が失いつつあるもの。
けれど、本当は誰もが必要としているもの。
それを、藤本さんは静かに守り続けている。
海南市の路地を歩いて、藤本茶舗を訪ねてみてほしい。
控えめな佇まいの店に、88年の歴史が静かに息づいている。
そしてできれば、家に帰ったら、急須でお茶を淹れてみてほしい。
茶葉が開くのを待つ、その数分間。
あなたにも「ひとやすみからはじまる未来」が見えるかもしれない。
ACCESS
藤本茶舗
〒642-0001 和歌山県海南市船尾186
TEL 073-482-0970
URL https://fujimotochaho.com/
