
和歌山県海南市の黒江。紀州漆器の町として知られるこの地で、明治9年(1876年)創業の池庄漆器店は150年の歴史を刻んできた。五代目店主の池原弘貴さんは、卸問屋として全国の漆器を扱いながら、自らも漆を塗り、途絶えた名品を復刻し、町の未来を見据えて動き続けている。
「次の世代につなぐために」――その言葉の裏には、伝統を守るだけでなく、使い続けられる文化として甦らせる強い意志があった。
「継ぐ」ということ――五代目の覚悟

池原さんが家業を継ぐことを決めたのは、ごく自然な流れだった。
「小さい頃から漆器屋をやってるのを見てましたから。僕が継ぐもんかなとは思ってました」
大学卒業後、父親の紹介で東京の漆器卸問屋最大手に就職。4年間、全国のネットワークと仕入れ先を開拓し、人脈を作った。その経験が、今の商売の基盤になっている。
帰郷後、池原さんが最も力を入れたのは「商売だけでは弱い」という危機感からの町づくりだった。12、3年前から黒江の街づくりに取り組み始め、イベントや住民を巻き込んだ企画を重ねた。
地元の人が『こんなとこ来ても、何もないやろ』って言うんですよ。その時、僕は真剣にそれは違うと伝えました。
10年かけて、少しずつ人が来るようになり、SNSを通じて台湾やフランスから直接訪れる客も現れた。
「継ぐって結局、何を守ることだと感じていますか?」という問いに、池原さんは迷いなく答えた。
「やっぱり伝統ですね。それをなくしてしまうと日本の伝統文化が一つ消えるんで、そこを何とか残していかないと。そういう使命感はずっと持ってます」。
その使命感が、後に語る敷島盆の復刻という大きな挑戦へとつながっていく。
失われた敷島盆を、再び

店の奥から、池原さんが一枚の盆を持ってきた。大正時代に作られた「敷島盆」。100年使い続けているとは思えないほど、艶やかで美しい。「持っていただいたらわかりますけど、ほとんど傷んでいないんですよ」。
手に取ると、確かに表面は滑らかで、縁にも欠けはない。重厚感がありながら、手に馴染む。この盆が一世紀もの時を超えて、今も現役で使われ続けている事実が、紀州漆器の品質の高さを物語っていた。
敷島盆は、昭和初期まで黒江で作られていたが、後継者不在で途絶えた名品だった。池原さんの店には20枚ほど残っており、客に出すたびに「これ売ってくれないか」と言われ続けてきた。
「それだけ求められているなら、復刻する価値があるんじゃないか」。そう決意し、本格的な復刻に踏み切った。
独特の形状――縁が玉縁になっており、木地を作るのも塗るのも手間がかかる。通常の盆に比べ、工程は格段に増える。しかし「やっぱり形が美しいんで、これは何としてでも復刻しないと」この言葉には、単に商品を増やすという以上の意味があった。途絶えた技術を甦らせ、黒江の歴史を次の時代へつなぐ。それが、池原さんにとっての「継ぐ」という仕事の本質だった。
その想いを共有できる相手として、伝統工芸士の林克彦さんに声をかけた。二人で試行錯誤を重ねながら、ようやく完成へとたどり着いた。「全く同じじゃないですけど、本当に忠実に再現できたかなと思います」。
完成した敷島盆は、100年前の姿を受け継ぎながら、現代の生活にも溶け込む器として生まれ変わった。池原さんはこの盆を、お盆だけではなく盛り皿として、日常使いしてほしいと考えている。
特別な日のためにしまい込むのではなく、気軽に食卓に並べてほしい――そんな願いが込められている。
漆塗り――気候との対話

復刻された敷島盆の製作工程は17にも及ぶ。木地は石川県の山中で引いてもらうが、それ以外は全て黒江で行う。中でも特筆すべきは、池原さん自身が中塗りまでの7割を手がけている点だ。
「中塗りといってふき漆を4、5回してから裏面を黒漆で2回塗る作業まで僕がやっています」サンドペーパーで磨き、漆を塗り、研ぐ。塗っては研ぎを繰り返し、最後の上塗りを林さんに託す。仕事が終わった後や朝に作業を続け、中塗りまでに3ヶ月。林さんに預けて上塗りに半年。「だから本当のメイドイン黒江で」と池原さんは誇らしげに語る。
漆は気温20〜25℃、湿度70〜75%でないと乾かない。冬は乾きにくく、梅雨は乾きすぎる。「その時の気候によって合わせていかないと、いつまでだっても乾かない」。
気候を読み、漆が最も美しく乾く条件を見極める。時には待つことも必要だ。10年以上前から職人ではないが漆を塗り始め、今では上塗り一歩手前まで塗れるようになった。いつか上塗りまでできるようになることを目指して、日々研鑽を続けている。
敷居の高さを壊す――「日常の風景の一部に」

「漆器って扱い難しいんでしょ」「洗剤使ったらダメなんですよね」――来店客の多くが、そんな誤解を抱いている。池原さんはその都度、丁寧に説明する。「いいものはそこまで気にしなくても、普通に洗剤でざっと洗って置いておけばそれでいいですよ」。
100年前の敷島盆の実物を見せると、客は驚く。この耐久性、この美しさ。説明を聞き、納得した上で購入してもらうことを、池原さんは大切にしている。
「商品はお金で買ってもらうんじゃなくて、買ってもらった時に商品だけ渡すのではなく、満足も一緒にお客さんに対して渡しなさい」。祖父から受け継いだこの言葉を、池原さんは守り続けている。
価格だけを見れば、漆器は決して安くはない。しかし池原さんは、値段ではなく「価値」を伝えることに力を注いでいる。100年使える耐久性、使い込むほどに色が深まる経年変化、修繕しながら使い続けられる持続可能性。そうした漆器本来の魅力を、一つひとつ丁寧に説明する。すると、お客は納得し、時には2回目の来店で購入を決める人もいる。
「ただ単に売る」のではなく、「納得して買ってもらう」。その姿勢が、池庄漆器店の信頼につながっている。
明治の絵師が遺した、再現不可能な技

店の奥には、滅多に見せない宝物がある。明治期に作られた蒔絵の漆器だ。
ネズミの毛一本で描いたといわれる、信じられないほど細密な松の葉脈。「今はもう描く筆がないんですよ。だから再現できないものも多いです、実際」。
道具も技術も失われた今、こうした逸品は二度と生まれない。目を凝らして見ると、松の一枚一枚の葉に繊細な筋が走り、まるで生きているかのような躍動感がある。これほどの細密画を描ける職人は、もういない。道具も、技法も、そして何より、何ヶ月もかけて一つの作品に向き合う時間も、現代には失われてしまった。
「本当に昔って、特に敷島盆はね、昔の物の方が技術力が高いんですよ。いくら有名な方でも再現できないぐらいのものもある」。だからこそ、残せるものは残していかなければならない。池原さんが敷島盆を復刻した理由も、ここにある。「やっぱり文化というか伝統を復活させるというのもありますし、昔の良いものを今の現代になんとか復活させたいという思いで復刻するんです」。
この言葉は、池原さんの仕事の全てを貫く信念を表している。完全に失われる前に、手を伸ばせば届く範囲にあるうちに、技術を甦らせる。それが、今を生きる者の責任だと、池原さんは考えている。敷島盆の復刻は、まさにその実践だった。
6代目へ、そして黒江の未来へ

「以前のインタビューで、『6代目につなぐために』という言葉が印象的ですが」という問いに、池原さんは即答した。「やっぱりそこなんですよ。いかに次の世代に継いでいくか」。
息子が家業を継ぐと言ってくれている。あと3〜5年は別の場所で経験を積み、その後黒江へ戻る予定だ。
「戻ってくるまでに、しっかりと商売の基盤を整えておかないと」。息子が安心して継げる環境を作ること、売上の土台を固めること、取引先との関係を深めること――それが今の池原さんの大きな目標だ。
池原さんは漆器だけでなく、地域全体の後継者育成にも力を入れている。連合自治会会長、海南市議会議員としても活動し、高齢化で機能不全に陥っていた組織を立て直した。「やっぱり後継者っていうのは、漆器に限らずどんなところでも必要なんですよ」。
会長職に就く時、池原さんはいつも「後継者を見つけること」を最優先に考える。自分が辞めた後、組織が続いていくために、次の世代を育てる。それが、どんな組織においても不可欠だと、池原さんは信じている。
小学校や中学校での講演も行う。漆の原液を取り出し、色が変わる様子を見せ、香りを感じてもらう。「やっぱりそれこそ教育だと思う。体験型にすると、子どもたちがものすごく興味を持ってくれて」。
ただ話すだけでは、子どもたちは飽きてしまう。しかし実物を見せ、触れさせ、変化を体感させると、子どもたちの目が輝く。漆の匂いを嗅ぎ、色が変わる瞬間に驚く。そうした体験こそが、伝統への興味の入口になる。伝統を守るには、使う人を育てることも欠かせない。
継承という、終わりなき責任

池原弘貴さんの仕事の根幹には、漆器を通じて日本の伝統文化を未来へつなぐという使命がある。もちろん、日々の商いも大切だ。しかしそれ以上に、100年使える盆を復刻し、自ら漆を塗り、若い世代に伝える――そうした行動の一つひとつが、150年続く池庄漆器店の「継ぐ」という覚悟の表れなのだ。
「ただ単にお金もらうだけで商品渡すんじゃなくて、ちゃんと納得したり満足した上で買ってもらう。それをずっと代々やってきてる」。その姿勢は、6代目へ、そして黒江の町全体へと広がっている。
ACCESS
池庄漆器店
〒642-0011 和歌山県海南市黒江692
TEL 073-482-0125
URL http://www.ikeshoo.jp/
