NOAH’S DIVE・谷口 政晃さん:部屋の案内人から、海の案内人へ

レギュレーターをくわえ、恐る恐る息を吸い込む。 水の中なのに、ちゃんと呼吸ができる。 谷口さんが初めてダイビングを体験したのは30歳のときだった。
賃貸不動産業で部屋の案内をしていた日々。友人の誘いで体験したダイビング。そこで感じた圧倒的な感動。部屋の案内人から、海の案内人へ。彼の転身は、どこか必然のように思えた。
素潜りで海と親しんでいた谷口さんにとっても、ダイビングの世界は全く別次元だったという。
「息継ぎを気にしなくていいんですよ。ずっと潜っていられる。それがまず衝撃でした」
水中では、音も違った。「天ぷらノイズ」と呼ばれる、パチパチという油が跳ねるような音。それはテッポウエビがハサミを鳴らすときの振動が、水中で独特の響きになる。耳を澄ませば聞こえてくるそんな小さな音以外、水中は静寂に包まれている。この落ち着きと非日常が、谷口さんをインストラクターの道へと導いた。
「自分が感動したことを、人に伝えたい」。そのシンプルな想いが、谷口さんのスタートだった。

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「教える」ことで知った難しさ

インストラクター資格を取得した翌日、谷口さんは早くも初めての講習を任された。緊張の中、マンツーマンで挑んだその初日は、予想外の困難に直面する。
最初の受講者がどうしても耳抜きがうまくできなかったのだ。「今までの知識を総動員しても対応できなかった」と谷口さんは振り返る。谷口さん自身は耳抜きに問題がなかったため、教え方の引き出しが少なかったのだ。お客さんに浅瀬で待ってもらい、施設まで走って先輩に相談した。片耳ずつ抜く方法、抜けない側を上に向ける姿勢、顎の筋肉をほぐす工夫――そうした細やかな対応で、お客さんは無事に認定を受けることができた。
この経験は、谷口さんに大きな学びを与えた。
「ダイビングって、技術だけじゃないんですよね。水に対する恐怖心をどう取り除くかが大きい」
谷口さん自身は水中に対する恐怖をほとんど感じなかったが、お客さんの中には水への恐怖を抱く人も多い。そんなとき、谷口さんが実践するのは「楽しみたい気持ちを引き出すこと」だ。「今、何を見たいか」と問いかけ、魚や景色を見せることで意識をそちらに向ける。気がつけば、怖さを忘れて水深10メートルにいる。そんな瞬間の積み重ねが、お客さんをダイバーへと変えていく。

冬の海は、実は一番美しい

和歌山の海は、季節によって表情を変える。冬は透明度が20メートルを超え、沖縄級の美しさを誇る。濃い青色の海は、プランクトンが少なく栄養価が低いからこそ澄んでいる。一方、春になると「春濁り」と呼ばれる、やや緑がかった水色になる。これは栄養価が豊富で、動植物のプランクトンが増える証だ。
「冬が一番綺麗ですね」と谷口さんは言う。しかし、多くの人は冬にダイビングができることを知らない。寒いイメージが強いが、ドライスーツを着れば体は濡れない。服を着たまま海に潜り、上がった後も海水を流してドライスーツを脱げば、そのまま帰宅できる。「北海道の流氷ダイビングも、これで全然いけます」
冬の和歌山は、透明度が高く、お客さんも少ない。マンツーマンでゆっくり潜れる贅沢な時間だ。だが、北風が吹くと波が立ち、ボートが大きく揺れる。そんな日は無理をせず、条件の良い日を選んで海に出る。

海の多様性、そしてダイバーの多様性

谷口さんが案内する海は、和歌山に留まらない。沖縄の離島――石垣島、与那国島、宮古島――それぞれに異なる魅力がある。石垣島は高確率でマンタに出会える場所。与那国島では、冬季限定でハンマーヘッドシャークの大群が現れる。宮古島はサンゴが隆起してできた島で、穴だらけの地形が「地形派ダイバーの聖地」と呼ばれる。洞窟を抜けると、光のカーテンが海中に降り注ぐ。その美しさに、谷口さん自身も最初に心を奪われた。
「ダイバーは地形派と生物派に分かれるんです」と谷口さんは笑う。地形派は洞窟や沈没船を好み、生物派はウミウシや魚に興味を持つ。谷口さんは最初、水中で呼吸できることだけで満足していたが、やがて沈没船や洞窟に惹かれ、さらに生物にも興味を広げていった。「今はオールマイティーに楽しんでいます」
ダイビングには、楽しみ方の多様性がある。そして、その多様性を受け入れることが、インストラクターとしての幅を広げる。お客さんの中には、楽しみすぎて周りが見えなくなる人もいる。空気残量を忘れ、どんどん吸い尽くしてしまう。そんなときは、優しく声をかけて、自己管理の大切さを伝える。
「楽しんでくれるのは何より。でも、安全が第一です」

共に潜り、共に成長する

「和歌山は海と山しかない県じゃないですか。でも至るところにダイビングポイントがあるんです。四季折々で海の表情も変わるし」と谷口さんは言う。
春のプランクトンが豊かな緑がかった海、夏の明るい海、秋の穏やかさ、冬の澄んだ青。和歌山の海は、一年を通して違う顔を見せる。そして谷口さんは、その海の魅力をまだ知らない人々に届けたいと思っている。
「これまで海に関わってこなかった方が、うちに来てライセンスを取得して、その方たちと一緒にスキルアップしていけたら」
谷口さんが求めているのは、一度きりの体験ではない。長く続く関係性だ。お客さんと共に潜り、共に成長し、海を深く知っていく――それが、谷口さんの描く理想の姿だった。ダイビングは、単なるレジャーではない。水中の世界での呼吸、静寂、生命との出会い。それは、人によっては人生観を変えるほどの体験になる。その体験へと、谷口さんは人々を誘っていく。

海を知らなかった人のために

谷口さんは、穏やかに話す人だった。
インタビューの間、淡々と自分の経験を語った。耳抜きができなかったお客さんの話も、楽しみすぎて周りが見えなくなる人の話も、困った様子ではなく、どこか微笑ましそうに話していた。
「水に対する恐怖心をどう取り除いてあげられるか」。そう語る言葉には、焦りも押し付けがましさもなかった。お客さんが怖がるのは当然で、それを一緒に乗り越えていく。そんな姿勢が、言葉の端々から感じられた。
30歳で初めて海に潜り、その感動に突き動かされてインストラクターになった。自分が感じたことを、人に伝えたい。ただそれだけのシンプルな動機で、谷口さんは今、この仕事をしている。

海の中で、はじめて息をしたあの日の感動は、いまも続いている。


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