
和歌山県海南市。かつて棕櫚(しゅろ)の産地として栄えたこの町に、三代続くたわし屋がある。髙田耕造商店。創業は1948年。いまも手作業で、棕櫚の繊維を使って、たわしを仕立てる。
三代目の髙田大輔さんは、もともと調理師だった。家業を継ぐつもりはなかった。それでも縁が縁を呼び、棕櫚の山に入り、道具を作り、今日もまた職人の手仕事に向き合っている。
「神様が作った素材に、僕らは手を添えさせていただくだけです」と、髙田さんは静かに言った。
棕櫚とは何か。

棕櫚はヤシ科の常緑樹で、幹に巻きついた繊維質の皮が原料になる。柔らかくしなやかでありながらコシがあり、素材を傷つけずに汚れをかき出す。この性質がたわしや箒に向いているとして、かつて和歌山は国内有数の産地だった。
しかし時代とともに、安価な輸入材や合成繊維に押され、棕櫚山の手入れをする職人は激減した。荒れた山では良質な皮が採れない。国産の棕櫚でたわしを作ることは、いまや容易ではない。
夢を諦めて、たわしを持つ。

髙田さんはかつて、料理人を目指していた。自分の店を持つ夢を抱き、その夢に向けて様々な飲食店で経験を積んだ。しかし理想と現実の壁に突き当たり、夢を諦めて実家へ戻った。
次の仕事を探そうとしていた矢先のことだった。 父親は何も言わなかった。ただ「ほな行こか」と一言告げ、息子を得意先へ連れて行った。「息子が戻ってきましたので、今後ともよろしくお願いします」。行く先々で歓迎され、髙田さんは気づけば家業の仕事の中にいた。下請けを担う家業にとって、若い働き手が戻ってきたことは素直に喜ばれた。その温かさが、髙田さんをその気にさせた。入院中の祖母の言葉も、背中を押した。「おじいちゃんが喜ぶわ」と目を細めて泣いた顔を、髙田さんはいまでも覚えている。「まんまとやられました」と髙田さんは笑う。
なぜ、日本の棕櫚じゃないのか。

仕事を始めてしばらく経った頃、髙田さんはある言葉に引っかかりを覚えた。営業先で「外国産の棕櫚やのに高い」と批判を受けた時のことだ。その瞬間、調理師時代に抱いていた感覚がよみがえった。良い料理には、良い素材が要る。産地にこだわり、素材の背景を知ることは、料理人にとって当然のことだった。ならば、たわしだって同じではないか。
和歌山はかつて、国内有数の棕櫚産地だった。なぜいま、外国産ばかりなのか。その疑問が、髙田さんを動かした。国産の棕櫚を探して、人を訪ね、山を歩いた。知識も経験も術もない中での試行錯誤が続いた。騙されたこともある。「日本産の棕櫚皮」として売られた素材を千枚分買い込み、いざ使おうとすると、目に見える部分だけ良い素材で中は使えないという代物だった。それでも諦めず、人づてに探し続けた末に、有田川町の山奥に住む職人・西脇さんと出会う。棕櫚縄を作り続けてきた職人だった。
山の時間が、教えてくれたこと。

西脇さんと出会ってからも、髙田さんはずっと、自分の役割は「売ること」だと思っていた。棕櫚の山の手入れは西脇さんに任せ、自分は商品を売る。それで成り立っていると信じていた。
転機は、内閣府の「地方創生大賞」を受賞した日に訪れた。喜んで山の人たちへ電話をかけ、意気揚々と西脇さんのもとへ報告に向かった。手放しで喜んでもらえると思っていた。ところが西脇さんの口から出たのは、こんな言葉だった。「大輔、おめでとう。これでようやく引退できる」
焦った。西脇さんがやめれば、国産棕櫚の供給が途絶える。
何とか続けてほしいと、夜仕事が終わってから仲間と話し合いを重ねた。自分たちの何がいけなかったのか。態度なのか、向き合い方なのか。三日かけて出た結論は、ただ一言だった。 「教えてください」。
振り返れば、髙田さんは長い間、西脇さんに甘えたままだった。初めて山に入った時は短パンにスニーカーで出かけるほどで、西脇さんがどんな思いで棕櫚の山を守ってきたか、何も理解できていなかった。
髙田さん自身も山に入るようになって、その重さを初めて体で知ることになる。
西脇さんが最初に持ってきてくれた棕櫚は、50年以上誰も手を入れていない山から採ったものだった。色は真っ黒で、手触りもボソボソ。それでたわしを作っても、散々な出来だった。その山に西脇さんが入り、2年間手入れを続けた。50年放置された荒れた山に道を作り、元気のない木を少しずつ手入れしていく。そうして採れた棕櫚を、またある日持ってきてくれた。
一目見て、別物だとわかった。真っ茶色で、ヌメ革のような光沢と艶がある。それでたわしを作ると、驚くほどいいものが仕上がった。それを見て、思わず声が出た。「え、何これ?」。その時口をついて出た言葉を、髙田さんは今でも覚えている。これがほんまもんの日本の棕櫚やと、直感した。
その棕櫚が採れるようになるまで、西脇さんはずっと山の木を守り続けていた。50年荒れた山に分け入り、枯れた木を手入れし、ただ「大輔を応援したる」という気持ちで、十数年。
その事実に気づいた時、髙田さんは山の中で胸が熱くなった。「ようやく引退できる」という言葉の本当の意味が、その時ようやく胸に届いた。
声が、道具になる。

髙田耕造商店の商品は、お客さんの声から生まれる。「これを洗いたいんだけど、ちょうどいい道具がない」という一言が、新しい道具の始まりになる。試作品を何度も作り、お客さんに送り、反応を見ながら形にしていく。現在の商品は80〜90種類。そのほぼ全てが、こうした現場のやりとりの中から生まれている。
「商品は誰が企画しているんですか?」とお客様に聞かれることがある。髙田さんの答えはいつも同じだ。「お客様が全部考えてくれている」。その典型が、瓶底洗いだ。もともとは、たった一人のお客さんのために作った道具だった。柄の調達から、切り出し、削り出しまで、髙田さんが手作業でこしらえた。
完成した時点でもう満足だった。それがイベントで売れ始め、最初は5本、10本とポツポツ動いていたのが、気づけば注文が重なり、常務が「そろそろ柄を加工してくれる職人を探しましょう」と言い出すほどになった。「刺さるところに刺さっていくんですよ」と髙田さんは言う。
誰もが使う道具ではなくていい。「こんなの誰が使うの?」と笑われるようなものでも、一人必ずファンがいる。その一人を大切にしていると、じわじわと需要が広がっていく。それが髙田耕造商店の流儀だ。
「一緒です」と言える、その先に。

「スーパーや百均で見るたわしと、髙田さんのたわしは何が違うんですか?」。髙田さんはこう問われると「一緒です」と答える。すると相手は「そんなことないでしょ」と返してくる。そこから、はじめて本当の話が始まる。「好きか嫌いか、それだけだと思うんです」と髙田さんは言う。
お気に入りのカバンを持ちながら、荷物はエコバッグに入れている人がいる。カバンは荷物を運ぶためじゃなく、好きだから持っている。たわしだって同じだ。機能だけで選ぶなら何だっていい。でも、好きだから使う。そういう人のために作り続ける。
売り込まない。ただ、好きな人に、好きなものを。それが髙田さんの変わらない姿勢だ。
たわしは、洗うものがあって初めて生きる。

不思議なことがある。髙田さんの母は、今は亡き髙田耕造から引き継ぎ、有田川の人たちと毎年年賀状を交わし続けていた。髙田さんはもちろん母もお会いしたことがない方々だった。ところが棕櫚を求めて有田川を動き回るうちに、知らないままその人たちと自然に出会っていた。温泉の売り場でたまたま買ったこんにゃくが、年賀状のやりとりをしていた親戚だったこともある。誰かに言われたわけでも、調べたわけでもない。縁が縁を引き寄せるように、気づけばそこにいた。
「縁って、ほんまに縁なんやな、と最近になってわかってきた」と髙田さんは言う。棕櫚との縁。師匠との縁。お客さんとの縁。そしてずっと前からそこにあった、知らなかった縁。それらが重なり、いまの髙田耕造商店がある。
この先どうなりたいか、と問うと「わからない」と笑った。続けたいという気持ちも、特別強くはないという。ただ、師匠が生きている間はやる。好きでいてくれる人がいる間は続ける。
「たわしって、洗うものがなかったらいらないんですよ。ということは、洗うものに助けられてる。自分たちも、周りの人に助けられてる。それって一緒やなと。恥ずかしながら、ここ最近気づきました」
有田川の山奥で、棕櫚の木はきょうも静かに育っている。その皮が人の手で道具になり、誰かの台所へ届くまでに、どれほどの時間と縁が結ばれているか。髙田さんの手仕事は、そのことをそっと問いかけてくる。
ACCESS
髙田耕造商店
〒640-1173 和歌山県海南市椋木97-2
TEL073-487-1264
URLhttp://takada1948.jp/
